BPDの危険因子 心理学的要因

これまでに数多くの精神疾患が、主として心理学的原因に基づいて発症するとみなされてきた。
問題の多い家庭内の経験が、こうした障害を引き起こすとされたのである。
たとえば私自身が研修医であった1980年代、統合失調症をそのような障害の一つであるとみなす精神科医はまだ決して少なくはなかった。
医局の症例検討会では「統合失調症を作り出す母親(Schizophrenogenic mother)」などという用語が先輩の医師たちの口から稀ならず発せられていたし、むしろ臨床に熱心な医師であればあるほど、生物学的要因以上に心理学的要因を重視する傾向さえみられたのである。
だからその当時の統合失調症患者の母親は、しばしば二重の悲運を堪え忍ばなければならなかった。
自分の子供が病気になってしまったという悲運と、自分が子供を病気にした「犯人」であると医療者側から告発される可能性に晒されていたという悲運である。
BPDをめぐる事情もそれと似た面がある。
治療者は子供がBPDを発症すると、その両親を非難することが多かった。
この障害に最初に注目し、概念形成にあずかってきたのが、精神分析的志向を持つセラピストたちであったためである。
精神力動的理論は成人の精神病理が、小児期に起源を持つという仮説に依拠していた。
またしばしばこうした理論では、成人になってからの精神病理が重ければ重いほど、その起源は人生のより早期にさかのぼるとされた。
だからBPDにみられる症状は、幼児期、それどころか乳児期に生じた問題を反映したものであるとみなされることが多かったのである(Masterson,1972;Grotstein, 1984)。
残念ながらこうした病因論は、BPDの患者と小さな子供が示す行動が、表面的にはつながりを持つように見えるという臨床観察と、精神分析理論に基づいてなされた推測との混交物にすぎなかった。
ほとんどの場合、こうした論者たちは、自分が治療的な関わりを持った、非常に小さな母集団に基づいて一般論を述べていたのである。
だからBPDの病因に関する精神力動的理論が、その後の実証研究で裏付けられることがなかったからといって、驚くには当たらない。
それにもかかわらず、こうした理論は今でもBPDの臨床に対して、少なからぬ影響を与え続けている。
だからここで主な精神力動的理論をいくつか取り上げて検討してみるのも、決して意味のないことではない。
たとえばMahlerの発達論に基づき、BPD患者は幼児が分離固体化を行なう上での再接近期(生後16〜25ヶ月の幼児が、自律的行動を発達させると同時に、母親の愛情を確認しようとするという、アンビバレントな行動を取る時期)に問題があったに違いないと考えたのはMastrersonとRinsleyであった(Mahlerほか, 1975; MastersonとRinsley, 1975)。
彼らはBPDとは再接近期における発達停止(developmental arrest)であると捉え、こうした患者の母親は子供が分離していくのを望まず、過保護にすることにより発達を妨げたーすなわちこの障害を作り上げたのは母親であるーという理論を提唱した。
同じ患者群を対象としながら、それとは正反対の病因論を展開したのがAdlerである(Adler , 1985)。
こうした患者が訴える強い孤独感は、子供の頃に母親から受けた情動的無視に由来するものであると考えたのである。
もちろんBPD患者の母親に特徴的な養育の仕方がもしあるならば、それを明らかにすることは重要だろう。
母親はBPD患者に対して過保護であったかも知れないし、情動的に無視していたかも知れないし、その両方であったのかも知れない(もちろんそのいずれでもなかった可能性だってある)。
いずれにせよ、これらの仮説のいずれかを支持するようなデータが提出されることはなかった。
今日精神分析の領域で盛んに論じられている愛着理論(attachment theory)は、ある意味でこの情動的無視という仮説を引き継ぎ、洗練させたものであると言っても良い(CassidyとShaver, 1999)。
この理論は子供の頃に養育者に対して異常な愛着が形成されると、後に精神病理が形成される可能性があるという仮説に基づいている。
Fonagyはこの理論をBPDに当てはめ、不安定/両価性型あるいは無秩序/無方向型といった、小児期の異常な愛着パターンが、患者が対人関係で抱える問題の背後にあると主張した(Fonagy, 1991, FonagyとLuyten, 2009)。
小児期に異常な愛着パターンを発達させた子供は、安定した現実的な自己概念を発達させるーすなわち自分のあるいは他者の意図、欲求、あるいは感情をうまく「心化mentalize」するー能力が損なわれるというのである。
自分自身あるいは他者の感情や思考について、言語的に表現する能力の獲得が貧弱であった子供は、後にBPDを発症することになる可能性が高いとFonagyは考えた(Fonagy, 1991, 1995)。
Fonagyに限らず、初期の愛着に関する問題が、後にBPDを発症することに関連しているという理論は、さまざまな研究者によって主張されている(Levy, 2005; Westen, 2005; Choi-Kainほか, 2009)。
愛着に関する研究が貴重なものであることは確かだろう。
しかしながらBPDの病因を明らかにする上で、この理論がどれほど資するところがあるかどうかについては、今に至るまで判断が分かれていることもまた事実なのである。
なぜなら子供がどのような愛着行動を発達させるかは、親の子供に対する関わり方だけなく、遺伝的な影響に基づいて作り上げられる、子供のパーソナリティー特性によっても大きく左右されるためである。
また最近なされたメタ分析によれば、養育者の精神状態や行動が、子供の愛着の無秩序さに対して持つ説明力は中等度―たとえば養育者の行動と子供の愛着の無秩序さの間にみられる相関は0.34であり、養育者の行動によって説明できる愛着の変動の割合は10%未満である―にすぎない(Madiganほか, 2006)。
さらに言うなら、子供が示す愛着パターンは、大人にみられる愛着パターンへと連続的に移行していくとは限らないのである(Rutter, 1995; Lewis, 1999; Paris, 2000)。
BatemanとFonagyはその著作の中で、治療者が親の養育の仕方について非難することに対して、いちおう批判的なスタンスを取ってはいる(BatemanとFonagy, 2006)。
しかしこのような理論に基づいて臨床をおこなう限り、親を責めるようなニュアンスが入り込むのを避けることは、結局のところ極めて難しいだろう。
私はBPD患者の家庭に、いわゆる「家族病理」がみられないと主張したいわけではない。
ただ治療者が家族病理を糾弾することにかまけている限り、「患者自身が変化し、さまざまな能力を実際に高めていくこと」という、BPDの治療にとって最も重要なプロセスがなおざりにされがちになること、そしてそれは長期的にみれば患者にとって少なからざる不利益をもたらすことになるであろうことは強調しておきたいと思う。