BPDの危険因子 社会的要因

これまでBPDの危険因子として取り上げてきたのは、主として個々の患者に対して特異的な影響を与えるような要因であった。
しかし多くの精神疾患の発症に関して、社会文化的要因が一般的な形で与える影響を無視することは出来ない。
ある種の心理的症状や精神障碍は、人々がどのような社会に暮らしているかによって少なからぬ影響を受けるためである。
神経性無食欲症はそのような障碍の代表だろう。
以前は豊かな西欧社会にしか発症しないと思われていたこの障碍は、今では世界中でみられることが明らかになっている(Hoek HWほか、2003、2005;Njenga FGとKangethe RN、2004;Bennett Dほか、2005;Lee HYほか、2005)。
したがってこの障碍の発症に遺伝的、生物学的な要因が大きく関与していることは間違いない。
しかしながらそれと同時にーたとえば遺伝と環境の相互作用という経路を通してー社会的要因がこうした疾患の発症に重要な役割を果たしている可能性は高いのである(Gordon RA, 2000;Bulik CM,2005)。
この障碍が好発するような社会とは、経済的に豊かで、痩せることに対して社会文化的に高い価値が置かれるような社会、そして女性の社会的役割や食生活が変化しつつあるような、文化的な移行期にある社会である(Nasser M, Katzman MAほか,2001)。
社会的要因が大きな影響を与えるのは、必ずしも摂食障碍ばかりではない。
気分障碍や不安障碍、物質乱用といった、最も一般的にみられる精神障碍に関しても、社会文化的要因の違いにより、発病のリスクが大きく左右されることが知られているのである(Somers JM, Goldner EMほか, 2004; Breslau J, Borges Gほか,2009)。
BPDに関しても事情は同様である。
パーソナリティー障碍と関連したさまざまなパーソナリティー特性は、生物学的な要因に由来するものであるから、それが時代と共に変化してきたとは考え難い。
それにもかかわらずBPDに代表されるようなパーソナリティー障碍が問題とされるようになってきたのは、比較的近年のことに過ぎないのである。
グリンカーらは早くも1968年に、「境界症候群(borderline syndrome)」が示す病理は20世紀に生じた社会的変化の副産物であると述べている(Grinker Rほか,1968)。
それとほぼ同時期に、「境界例」の発症に対して社会文化的要因が与える影響に関して優れた仮説を提出したのは安永浩であった(安永、1970、1980)。
安永によれば「境界例」が多発する現代―これは1970年のことを指している―とは、センセーショナリズム、「イド(フロイトの用語で、欲動のみから構成されている人格の部分を指す)」の時代であり、絶対ではなく相対の時代である。
重視されるのは快感ないし心理的満足の追求であり、時代を代表するシンボル的人物像は「スター」「タレント」である。
従来の規範は希薄化し、むしろ社会学デュルケームが主張するところの「規範の解体(アノミー:anomie)」こそが時代の特徴である。
このような「今日的」葛藤の犠牲者となるのは、以下のような人々である。
1.幼時に「自由」「自律」の教条を(疑問も抱かずに)たっぷりと取り入れた人
2.本能的・感覚的満足への欲望志向が大きい人
3.時代が生み出す隠微な危険―虚無への分解の脅威―を克服・回避するだけの心的装備を持たない(あるいは育てえなかった)人
BPDの危険因子としての社会文化的要因に関して、40年以上前になされたこの卓抜な考察に付け加えるべきことは今でもさほど多くない。
いずれにせよわれわれが暮らしているのは、社会的統合が少なからず損なわれた、極端に個人主義的な社会、すなわち社会的孤立を助長し、個人が抱える不安に対する緩衝装置を見出すことが極めて難しい社会である。
そしてそのような社会では、切傷や大量服薬といった衝動的行動が生じることに対するハードルが下がる可能性があることが示唆されているのである(Paris J,1992,2008; Millon, 1993)。
それを裏付けるように、青年期や若年成人期にみられる衝動性障碍(物質乱用、反社会的行動など)は、第二次世界大戦後ほぼ全ての西欧社会において、「驚くほどに、そして気がかりなほどに」増加してきたのである(Rutter MとSmith DJ, 1995)。
さらに1960年代以来、若年成人が自殺企図をおこなう頻度だけでなく、自殺を既遂した者の頻度も著しく増大している(Bland, Dyckほか1998; Maris, BermanそしてSilverman, 2000)。
BPD自体に関してこれらに相当するような疫学研究は存在しない(これはBPDが障碍としてDSMにより「公認」されたのが比較的最近[1980年]であることも関係しているだろう)。
しかし参考になるようなデータなら存在している。
BPDと同じように衝動性を示す障碍である、現在であれば反社会性パーソナリティー障碍に相当する患者の有病率は、1950年から1980年にかけて北米で大幅に増大しているのである(RobinsとRegier, 1991)。
近代西欧社会が重視してきたような価値観、すなわち自由主義的あるいは個人主義的な価値観が貴重なものであることは間違いない。
また若者たちの多くは、われわれの社会が宿している強烈な現代性(modernity)の中にあってーあってさえ!ー首尾よく適応できていることも確かである。
だがその一方で、脆弱性を持つ若者たちが、衝動性障害に罹患するリスクに晒されていることを忘れてはならないだろう。
自由主義」あるいは「個人主義」という、われわれが普段ほぼ無条件でプラスの意味づけを与えている価値観についていったん根底的に疑い、それらをー否定するのではなくー相対化してみるという作業を行なうこと。
それはBPDの臨床に携わる臨床家にとってだけでなく、BPD患者の家族、そしてBPD患者自身にとってさえ、極めて有益なものであるように思われる。