BPDの危険因子 BPDとトラウマ その2

虐待が子供に対して有害な影響を与えることに異論を唱えるものは誰もいないだろう。
問題はこうした経験が、後にBPDを含む精神疾患を引き起こすかどうかという点にある。
実はごく最近まで、この疑問に充分な精度で答えることが出来るような研究は存在していなかった。
これから述べるようなさまざまな方法論上の問題を、克服することが難しかったためである。
両者の関係をきちんと解明したければ、虐待を受けた子供たちを、成人するに至るまでフォローしていくような形の研究―高リスク研究あるいはプロスペクティヴ研究―をおこなうことが、最も理想的な方法のはずである。
しかしこのテーマに関してそうした研究がなされることはこれまで稀であったし、おそらくこれから先も稀であろう。
そのような研究をおこなうことには、莫大なコストや時間を要するだけでなく、倫理上の問題まで絡んでくるからである(Fergusson と Mullen, 1999)。
(虐待がなされたことがわかっている子供たちに対して、続発症を避けるための介入を行うことなく、ただただ観察し続けることが許されるかどうかを考えてみれば、こうした研究を行うことの難しさがわかるだろう)。
したがってこれまでになされた研究が、数多くの方法論上の問題を抱えていたのも、ある意味ではやむを得ないことであったのかも知れない(Fergusson, Horwood, そしてWoodward, 2000)。
第1の問題として、サンプリングの偏りが挙げられる。
性的虐待(childhood sexual abuse: CSA)や身体的虐待(childhood physical abuse: CPA)が与える長期的影響を調べた研究は、そのほとんどが診療所を受診したり、自らカウンセリングを求めた人物、精神科に通院中の患者、あるいは囚人などを対象としていた。
そのような特殊なサンプルに基づいて得られた結果が、一般の地域住民に対して適用出来るかどうかはわからない。
第2に虐待が生じた背景にあるさまざまな要因を充分に考慮に入れ、それを補正することが出来ていないことが挙げられる。
だから虐待を受けた子供に、後に何らかの精神医学的問題が生じたとしても、それは虐待それ自体の影響ではなく、子供が置かれた環境の中にある、家族、社会、そして個人的な要因の影響かも知れない。
第3にデータの収集方法それ自体にまつわる問題が挙げられる。
このような研究では、調査の対象者に対して、虐待を含む子供の頃の記憶を、過去にさかのぼって思い出すよう促し、それに基づいてデータを収集していく場合がほとんどである。
しかしこうした方法を用いる限り、データをどれほど集めることが出来るかどうかは、参加者がそうした出来事を思い出したり、報告したりする意欲や能力に左右されることになる。
そしてたとえば調査時点で精神疾患に罹患している人たちは、そうでない人たちに比べて、過去に有害と思われる出来事に晒された経験を、より多く思い出す可能性があるーこれを「想起バイアス(recall bias)」と呼ぶーことが知られているのである(Schachter,1996)。
最近なされたFergussonらの研究は、こうした方法論上の問題を出来る限り回避することを目指した、画期的なものであるといってよい(Fergusson, Boden, そしてHorwood, 2008)。
これは1977年にクライストチャーチ(ニュージーランド)で生まれた中から任意抽出された、1265名の子供の長期経過を25歳に至るまで追跡した、「クライストチャーチ健康と発達研究(Christchurch Health and Development Study)」の一環としてなされた。
この研究では、以下のようなやり方で、従来みられた方法論上の問題を巧みに回避している。
第1に一般地域住民を対象として調査を行うことにより、サンプリングの偏りという問題が生じるのを避けること。
第2に出生から25歳に至るまでの背景要因をリアルタイムで収集することにより、そうした要因が与える影響と、性的虐待(CSA)や身体的虐待(CPA)が与える影響との間に、混同が生じるのを避けること。
第3に想起バイアス(recall bias)が生じるのを避けるために、小児期に虐待がなされたかどうかについての評価を1回ではなく、18歳と21歳という2つの異なる時点―すなわち2つの異なる精神状態―において再検査することである。
さて以上のような工夫を凝らすことで得られた結果は、少々意外なものだった。
何よりも意外だったのは、身体的虐待(CPA)それ自体は、後に精神疾患が発症するかどうかに関して、わずかな影響しか与えないという結果がもたらされたことだろう。
社会的、家族的、そして個人的要因が与える影響を補正した場合、身体的虐待(CPA)がメンタルヘルスに与える長期的影響は、統計的に有意とはいえないレベルまで減少した。
逆に言うなら身体的虐待(CPA)が与えるとされてきた影響の大部分は、親の教育程度、家庭の生活水準、離婚や死別、再婚などの形で親に生じた変化、親(あるいは交代した親)との間でしっかりした愛着が形成されているかどうか、そして子供の知能指数などの社会的、家族的、そして個人的要因に由来することが明らかになったのである。
それとは対照的に性的虐待(CSA)は、それ自体がメンタルヘルスに対して長期にわたりマイナスの影響を与えることが明らかになった。
たとえば性的虐待(CSA)がなされた場合、そうでない場合に比べて、後に精神疾患に罹患するリスクが約2.4倍高まる。
また精神疾患の発症に対して、性的虐待(CSA)がおよぼす人口寄与危険度(Population Attributable Risk:PAR)は13.1%であるとされた(これはCSAがなされていなければ、この調査集団に生じた精神疾患が、全体で13.1%減少したはずであることを意味する)。
これは単一のリスク要因としては、決して少ないとは言えない数値である。
ただし前回に述べたように、全ての性的虐待(CSA)が、メンタルヘルスに対して同じような影響を与えるわけではないことに注意しなければならない。
性的虐待(CSA)と、後にみられる精神病理との間には、比較的明確な「投与―反応曲線(dose-response curve)」がみられるーなされた行為が深刻なものであればあるほど精神病理が発生するリスクが高まるーためである(KendlerとPrescott, 2006)。
たとえば後に精神病理を示すリスクは、実際に性交がなされた場合の方が、そうでない場合に比べて著しく高い。
性的虐待(CSA)が与える影響について検討する上でのパラメーターとして、もう一つの重要な要因として、加害者の素性が挙げられる(BrowneとFinkelhor, 1986; FergussonとMullen, 1999)。
通説とは異なり、性的虐待(CSA)の大半は、家族メンバーによってではなく、被害者の顔見知りである他人によってなされる。
しかし家族メンバーが関わる性的虐待(CSA)は、他人が関与した場合よりも繰り返しなさる傾向があり、また性交を伴うような深刻なものが多い(当然ながら病原性が最も高いのはこのようなパターンである)。
ちなみにこのパターンの虐待は、ほとんどの場合に<父親―娘>の間で生じるが、ここでいうところの「父親」が、実の親とは限らないことに注意すべきであるー母親の再婚相手(継父)により性的虐待(CSA)がなされるリスクは、生物学的父親によってなされるリスクの実に10倍である(Andersonほか、1993)。
話を元に戻すなら、これらにとどまらず、性的虐待(CSA)がなされた頻度や期間など、被害者のメンタルヘルスに対して影響を与える可能性のあるパラメーターは、他にもいくつか存在している。
だから患者が虐待を受けたと報告した場合、臨床家は患者の症状がそれに由来するとみなす前に、これらのパラメーターについて充分に検討し、その経験がどの程度のインパクトをもたらす可能性があるかについて評価しておくべきなのである。
残念ながら臨床を行なう際に、こうしたパラメーターについて充分な関心が払われるとは限らない。
これまでBPD患者の2/3(あるいはそれ以上)が子供の頃に虐待を受けたなどという、誤解を招きやすい主張がなされて来たのはそのためである。