BPDという問題 その6

話を本題に戻す前に、回り道をして論じておきたい問題がもう一つだけ残っている。
それは「青年期にBPDの症状がみられた場合に、それをどのように捉えるか」という問題である。
ここでいう青年期とは、思春期の発現から成熟にいたるまでの、身体的ならびに心理的発達が生じる時期をさし、具体的には男性では13歳頃から、女性では11歳頃から早期成人期に至るまでの期間をさしている。
アメリカ精神医学会の診断基準であるDSM-4-TRでは、充分な臨床的評価がなされること、症状の持続期間が少なくとも1年以上であることを条件として、18歳以下の患者に対してパーソナリティー障害という診断をつけるのを一応認めてはいる。
「一応」という断りを入れたのは、この基準をどのような場合に青年期の患者に当てはめて良いかについては依然として曖昧であり、多くを臨床家の判断に委ねていたためである。
実情はどうであったか。
青年期はパーソナリティーが発達途上にある時期であり、パーソナリティー障害の症状は、青年期後期あるいは若年成人期までは安定しないという、一般的なーしかし最近になるまでその当否が検証されることのなかったー通念に基づき、メンタルヘルスの専門家がこの年齢の患者に対して、パーソナリティー障害という診断をつけるのは、これまで比較的まれなことであったといってよい(Millerほか, 2008;Crawfordほか, 2008)。
この通念の当否を検証するためには、パーソナリティー障害だけでなく、青年期にみられるさまざまな精神疾患が、どのような形であらわれ、どのような経過を辿り、予後に対してどのような影響を与えるかについて、一般の地域住民を対象として長期にわたりフォローしていくような研究をおこなう必要があるが、これまでそのような研究はほとんどなされてこなかったのである。
「地域社会における小児研究(CIC : Children in the Community Study)」(Cohenほか, 2005; Crawfordほか、2005)は、そのような空白を埋めるものであり、青年期の子供たちが示す、パーソナリティー障害を含むさまざまな精神疾患の症状が、どのような変遷を示すかについて20年以上にわたり検証した、現在のところ唯一の研究プロジェクトである。
これはニューヨーク州の北部にある2つの郡の住民からランダムに選ばれた、749名の子供たち(とその母親)を対象として、DSMの1軸に分類される障害(パーソナリティー障害と精神遅滞を除く、さまざまな精神疾患すべて)と、2軸に分類される障害(パーソナリティー障害)の双方について、それぞれ症状の移り変わりを継続的に調査したものである。
この研究プロジェクトは、本来は子供たちの身体的健康と社会的、情動的、認知的機能についてモニターするための指標を開発する目的で、アメリカ政府主導のもとに1970年に開始されたものである(Koganほか、1977)。
そのプロジェクトに参加した子供たち(とその母親)に、新たな補正サンプルを追加した上で、DSMの1軸および2軸障害の前兆となるような因子を探る研究として再スタートを切ったのが1983年であり、その時点における子供たちの平均年齢は13.8歳であった。
対象者に対してはその後も中期青年期(16歳)、若年成人期(22歳)にフォローアップが行なわれ、当初の対象者のうち84%(629名)が参加した、最新のフォローアップ研究がおこなわれた時点における平均年齢は33.2歳に達していた。
このプロジェクトに関連して行なわれたさまざまな研究から得られた結果は、かなり興味深いものである。
地域社会における子供たちが示した、パーソナリティー障害のさまざまな症状は、一般的には早期青年期にそのピークに達し、9歳から27歳にかけて、年に約1%の割合で、ほぼ直線的に減少していく(Johnson, Cohen, Kasenほか, 2000;Crawfordほか、2006)。
一見したところ、これはパーソナリティー障害の症状が、若年成人期に至るまで安定しないという、これまでの通念を裏書きしたものに過ぎないように思われるかも知れない。
しかし話はそれだけでは終わらなかった。
まずこれらの子供たちが示すパーソナリティー障害の症状を、時間をおいて繰り返し測定した場合、症状の数の平均レベルは減少していくにもかかわらず、どの子供に症状が多くみられる傾向があるかは、青年期を通してあまり変化しない。
そしてパーソナリティー障害の症状を最も多く示した(約21%の)子供たちは、弱年成人期まで繰り返し調査を行なうにつれて、標準的な同年代の子供たちが示す症状レベルから次第に逸脱していく(Crawfordほか, 2005)。
さらに最も問題とされたのは、パーソナリティー障害の症状が数多くみられた場合、たとえそれが出現したのが青年期初期であったとしても、10年から20年後の予後にマイナスの影響を与えるのが明らかにされたことだった。
そして多くの場合そのマイナスの影響は、大うつ病、不安障害、破壊的行動障害などのDSMの1軸障害が、子供たちの予後に対して与える影響よりも重篤であり、また広い範囲に及ぶ傾向があった(Cohenほか、2005)。
あまつさえ次回に述べるように、そして少々驚くべきことに、そもそも青年期にみられるDSMの1軸障害(パーソナリティー障害と精神遅滞を除く、さまざまな精神疾患すべて)は、パーソナリティー障害と合併していない限り、しばしば一過性のエピソードにとどまる可能性があることまで明らかにされた(Crawfordほか、2008)。
これまでに挙げたような研究だけでなく、青年期にパーソナリティー障害の症状が数多くみられた場合、DSMの1軸障害が合併していたかどうかとは無関係に、子供に対して長期的な機能障害を生み出し、予後に対してマイナスの影響を与えることを裏付けるようなエビデンスが、近年になって次々に公表されている(Lofgrenほか、1991;Reyほか、1997;Johnsonほか、1999、2000;Chenほか、2006a,2006b;Kasenほか、1999、2007;Skodolほか、2007;Crawfordほか、2008;Winogradほか、2008)。
以上の知見を前提にした上で、「青年期にBPDの症状がみられた場合に、それをどのように捉えるか」という問題に立ち戻ってみよう。
青年期にみられるパーソナリティー障害の症状が、時とともに減少する傾向が見られるのは事実であるから、この時期の症状が持つ臨床的意義を評価する際に慎重さが求められるのは当然である。
しかしながら青年期にみられるパーソナリティーの病理は、決して一過性の現象とはいえないから、それを「思春期危機」や「青年期の不安」として片付けることはできない。
それどころか、このような傾向を持つ青年期患者の大半には、若年成人期に至っても深刻な問題を抱え続ける傾向が認められるのである。
したがって青年期の患者が示したBPDの病理に対して適切な評価をおこない、治療的介入をおこなうのは、第二次予防(早期発見、早期治療)の観点からも、充分に理にかなったことであると思われる。
とりあえずの結論には達した。
ただしこれまで論じてきたのは、主として青年期にパーソナリティー障害の病理が単独でみられる場合であった。
しかし青年期患者の予後に対して本当に深刻な影響を及ぼすのは、実はDSMの1軸障害と、パーソナリティー障害が共存している場合である(そしてそのようなケースはごくありふれたものである)。
そのような場合に、どのような事態が生じるかについては次回に述べることにしよう。

(この項続く)

BPDという問題 その5

BPD患者はどのような時に、どのくらいの頻度で自殺してしまうのか。
これは臨床家だけでなく、BPDに関わりを持つ全ての人にとって関心を持たずにはいられないテーマだろう。
自殺傾向はBPDの主な特徴の一つであり、多くの患者は実際に自殺企図を繰り返すのだから。
しかしこの疑問に厳密に答えることは、残念ながら以下の2つの理由で今のところとても難しい。
第一の理由はBPD患者がーBPD患者に限らないかも知れないのだがー男性と女性で自殺に際して異なった行動パターンを示す可能性があるためであり(Lesageほか, 1994)、もう一つの理由はBPD患者の大半は女性であるという、これまでの通説を覆すような疫学研究が、最近になって次々と発表されているためである(Coidほか, 2006 ; Lenzenwegerほか, 2007;Grantほか、2008)。
自殺に際して男女で異なる行動パターンを示すとは、以下のようなことである。
一般人口を対象とした疫学研究によれば、実際に自殺してしまう人物(一般人口の0.2%)と、自殺企図をおこなう人物(一般人口の5%)は、かなり異なったプロフィールを示すことが明らかになっている(Beautrais,2001, Welch,2001)。
実際に自殺してしまう人たちは以下のようなプロフィールを持つ場合が多い。
年齢がより高く、男性で、自ら治療を求めることは比較的少ない。
自殺を図るにあたって、より致命的な方法を用いる傾向があり、そしてただ一度の試みで実際に死んでしまう。
他方で自殺企図をおこなう人たちは以下のようなプロフィールを持つ傾向がある。
年齢がより低く、女性で、自ら治療を求めることが比較的多い。
自殺を図るにあたって、致命的な方法を用いることは少なく、したがって助かることが多い(Marisほか, 2000)。
自ら治療を求める傾向が高い女性という、自殺企図をおこなう人たちに共通するプロフィールは、BPD患者に対するこれまでの通説に良く当てはまる。
しかしBPDの男性は、それとは異なる自殺傾向のパターンを示す可能性があることに注意すべきである。
自殺者の遺族などから、亡くなる前の本人の状態や周囲の状況を詳細に聞き取り、自殺が起こった原因や動機を明らかにしていく心理学的剖検(psychological autopsy)研究によれば、18歳から35歳という比較的若い年齢で自殺した者のうち、約1/3がBPDと診断される可能性を持つ人々であった。
注目に値するのは、それらの人々の大半が男性であり、しかも自殺した時点で治療を受けていた者はごくわずかであったことである(Lesageほか, 1994)。
これはBPDに罹患している若年の男性が、同じ障害に罹患している女性とは異なり、医療的な援助を求めることのないまま、実際に自殺するに至っている可能性があることを示す。
そしてBPDの男性は、これまでの通説とは異なり、決して少なくはないようなのである。
外来を訪れるBPD患者の約8割は女性であるという報告まである(Zimmermenほか2005)くらいだから、これまでBPDはもっぱら女性が罹る病気であるとみなされてきたのも無理はない。
しかし実際の地域社会ではそうではない可能性がある。
研究用診断面接が開発されるのに伴い、大きな地域社会の一般市民を対象として、パーソナリティー障害全ての有病率を測定するという研究プロジェクトが、最近になって次々とおこなわれるようになった(Jacksonほか、2000;Torgersenほか、2001;Grantほか、2004;Coidほか, 2006 ; Lenzenwegerほか, 2007;Grantほか、2008)。
それらの地域社会の市民を対象としてなされた研究の大半は、臨床サンプルを対象としてなされた研究とは異なり、BPDの有病率には男女間で統計的に有意な差がないことを示している。
ひょっとするとこの結果は、専門家よりも家族にとって重要なものかも知れない。
家族はこの情報を得ることで、BPDに罹患している恐れがある男性患者に受診するよう促すことが出来る可能性があるが、専門家はとりあえず女性ばかりが訪れる外来で治療をおこなうほかはないのだから。
臨床の現場と地域社会の有病率との間に、このような食い違いが生じてしまう理由として、以下のような可能性が考えられている。
女性のほうが他人に助けを求める傾向が強いこと、サンプリングや評価をおこなう上でのバイアス、そしてBPDに罹患した男性に比べて、女性のほうが身体的障害(高血圧、糖尿病、心筋梗塞、肝障害、性病など)や、他の精神障害を合併する場合が多いために、受診につながりやすいと思われることである(Grantほか、2008)。
さて以上を長い前置きとして、という本来の問いに戻ることにする。
ただしこれまでにおこなわれた長期予後研究は、当然ながら基本的には受診した患者を対象としたものであり、したがって女性患者が大半を占めていることをくれぐれも忘れないでいただきたい。
この問いに答えることは、ある意味では難しくない。
長期予後研究のほとんどが、BPD患者の約10%が自殺するに至ることを示しているからである(この自殺率は統合失調症において、あるいは大うつ病において報告されている自殺率に匹敵する)。
たとえば遡及研究(過去においてBPDと診断されていた患者の経過を、現在からさかのぼって調査した研究)から得られた結果の中で代表的なものを挙げるなら、平均15年を遡及して調査したモントリオール総合病院における研究の約9%(Parisほか, 1987)、平均15年を遡及して調査したニューヨーク精神医学研究所における研究の約9%(Stone,1990)、そして平均27年を遡及して調査したモントリオール総合病院における研究の約10%(ParisとZweig-Frank, 2001)がある。
ちなみに遡及研究ではチェスナットロッジ病院の研究(McGlashan, 1986)が、前向き研究ではMSAD(マクリーン病院成人発達研究:Zanariniほか, 2005b)が、3〜4%というかなり低い自殺率を示しているが、前者は対象患者が社会階層の高い家庭の子弟に偏っているという理由で、後者は経過をフォローしていた期間を通して、ほとんどの患者に対して集中度の高い治療がなされていたという理由で、いずれも典型的なサンプルの自然経過を追うことにより得られた結果であるとみなすことは難しい。
しかしこうした長期予後研究から得られた、最も興味深い知見の一つは、やはりBPD患者が実際に自殺してしまう年齢に関するものだろう。
BPD患者が自殺を考えたり試みたりすることが最も多いのは、この障害の経過の初期にあたる20代であることはとても良く知られている。
しかし彼らが実際に自殺してしまうのは、もっとずっと後のことであるのはあまりよく知られていない。
ニューヨーク精神医学研究所における研究(Stone,1990)によれば、さかのぼって調査した15年間における自殺患者の平均年齢は30歳ーParisたちのグループがそうだったように、調査対象の期間をさらに長く取れば、この平均年齢はさらに上昇した可能性があるーであり、モントリオール総合病院における研究(ParisとZweig-Frank, 2001)によれば、さかのぼって調査した27年間における自殺患者の平均年齢は37歳であった。
いささか逆説めいた言い方に聞こえるかも知れないが、これらの研究からわかることは、医療関係者や家族を含む周囲の人間が最も自殺を警戒する時期に、BPD患者が自殺してしまうのは比較的まれだということである。
さらに本当に自殺してしまう危険があるのは、有効な治療がなされることなく年齢を重ねてしまった患者だということもわかる。
これはBPDに対して適切な治療をおこなうことができる治療者が、今でも極めて少ないことを考えれば深刻な問題であるというほかはない。
さらにこれと関連した、気になるデータが存在する。
BPD患者は約10%という自殺率を示すのに加えて、健常者よりも著しく高い早期死亡率を示すことが明らかになっていることである(ParisとZweig-Frankの研究では約8%、Stoneの研究では約13%)。
これは長期的にみると18%(ParisとZweig-Frank, 2001)から21%(Stone,1990)ものBPD患者が、自殺あるいは「自然経過」によって、年齢に不相応なほど早く亡くなるということを意味する。
適切な治療的介入や指導を受けない限り、生活習慣と関連したさまざまな疾患を予防し、性感染症や事故などのリスクを避けられるような、健康的な生活をBPD患者が維持することはとても難しい。
治療者は自殺の危険ばかりに目を向けるのではなく、このような日常生活に潜む危険に十分に留意し、出来る限りそれを回避するための介入をおこなう必要がある(そして後に述べるように、このような介入をおこなう際に、家族の協力は欠かすことが出来ない)。
いずれにしても長期的にみた場合、BPD患者を外来で「なんとなく」マネジメントしていくという方針が、これまでに考えられてきたよりも危険なものである可能性があることを、これらの研究は示している。

BPDという問題 その4

おそらく先に述べたような事情も手伝ってのことであろうが、BPDの転帰を調査する目的でおこなわれた前向き研究(Linksほか, 1998 ; Skodolほか, 2005 ; Zanariniほか, 2005b)では、遡及研究と比べても有望な結果が得られたものが多い。
ただしマクマスター大学でおこなわれた最初の前向き研究は、対象患者88名のうち約1/3がドロップアウトしていることにも一因はあるのかも知れないが、従来の研究から得られた結果と比べて面目を一新するというには至らなかった(Linksほか, 1998)。
研究開始から7年が経過した時点で、約53%の患者がBPDの診断基準を満たさなくなっていたが、これは後におこなわれた、より規模の大きい2つの前向き研究はもとより、遡及研究で得られた値に比べてもやや控えめな数値である。
ひょっとするとこのような結果が得られた理由は、7年というフォローアップ期間が、遡及研究の15年から27年という期間に比べてかなり短いことに由来するものかも知れず、さらに長期にわたってフォローすれば遡及研究と同程度の寛解率になった可能性はある。
ちなみにこの研究によれば、何らかの形で就労していた患者の割合は58%、既婚者の割合は37%であり、調査開始時点におけるBPDの病理が軽いほど、そして合併している他のパーソナリティー障害の数が少ないほど患者の転帰は良かった。
文字通り面目を一新すると言うにふさわしい結果が得られたのは、国立精神衛生研究所(NIMH)の資金援助のもとになされた、より大規模な2つの前向き研究においてである。
マクリーン病院成人発達研究(McLean Study of Adult Development:MSAD)では、290名のBPD患者を対象として1993年から2年ごとに面接をおこない、10年以上にわたってその経過を追跡した(Zanariniほか, 2005b)。
ちなみに10年間で約8%というドロップアウト率は、この障害の性質を考えれば驚くーさらに言うならその意味を慎重に検討するーに値する低さである(実際には亡くなった患者がそれに加わるから、10年後にフォローアップ面接を受けた患者の割合は約86%であった)。
注目に値するのは、2年後におこなわれた第1回目のフォローアップ面接の時までに、すでに34.5%の患者がこの障害の診断基準を満たさなくなっていたことである。
これらの患者はその後も一貫したペースで寛解し続け、調査開始後10年目までに寛解率は88%に及んでいた。
またこれらの患者はいったん寛解すると、再発することはまれ(約6%)であり、再発率の高い大うつ病双極性障害とは対照的な経過を辿ることが明らかにされた。
さらに6年目のフォローアップ面接時に、寛解していたBPD患者(全体の68.6%)が示したGAF(機能の全体的評定)尺度の平均値は、61あるいはそれ以上と、軽度の障害という範囲に収まっていた。
また寛解した患者のうち66%(全体の45.3%)が良好な心理社会的機能を示していた(Zanariniほか、2005a)。
転帰の良さと関連していたのは以下の7つの要因であった:年齢が若いこと、小児期に性的虐待を受けていないこと、物質乱用歴のある家族がいないこと、良い職歴を持つこと、C群パーソナリティー障害(回避性パーソナリティー障害、依存性パーソナリティー障害、強迫性パーソナリティー障害)が存在しないこと、神経症傾向(ストレス要因に対して精神的混乱を引き起こしやすい傾向)が低いこと、そして協調性が高いことである(Zanariniほか, 2006)。
パーソナリティー障害経過共同研究(Collaborative Longitudinal Personality Disorders Study:CLPS)はハーバード大学コロンビア大学、イェール大学、テキサスA&M大学、そしてブラウン大学が共同でおこなった前向き研究である(Skodolほか、2005)。
他の多くの転帰研究とは異なり、この研究に参加した668名は必ずしも入院患者ではなく、調査開始時点において治療を求めているか、あるいはその少し前から治療を受けはじめた人々であった。
主診断がBPDであったのは175名であったが、そのうち2年後にフォローアップ面接を受けたのは154名(88%)であり、MSAD(マクリーン病院成人発達研究)には及ばないものの、充分に低いドロップアウト率であるといえる。
そして寛解率はMSADに比べてすらいっそう高く、2年後のフォローアップ面接ですでに44%の患者がこの障害の診断基準を満たさなくなっていた。
他方でこれらの患者が示すGAF(機能の全体的評定)尺度の平均値は、残念ながら2年間でほとんど改善が見られなかった。
これはBPD患者が自殺企図や自傷行為などの症状を示さなくなったとしても、対人関係上の問題に代表されるような社会的機能の障害は持続することを意味している。
MSAD(マクリーン病院成人発達研究)で示された社会的機能の改善は、この研究で得られた結果に比べて良好なものであるのは事実だが、BPDの寛解過程は、BPDをいわば「卒業」してPDNOS(Personality Disorder Not Otherwise Specified:特定不能のパーソナリティー障害)へと移行していく過程として捉えられる可能性があることにはいちおう留意しておく必要がある(Paris,2008)。
調査開始時点においてBPDの病理が軽く、小児期に虐待や養育放棄を受けたことがなく、対人関係の不安定性の程度が軽く、家族との関係が良好であるほど2年後の転帰は良かった(Gundersonほか, 2006)。
以上のような結果に基づいて、MSAD(マクリーン病院成人発達研究)とCLPS(パーソナリティー障害経過共同研究)はともに、BPDとはさまざまな症状とパーソナリティー特性とが入り混じり合ったものであると結論づけている。
すなわち自傷行為や自殺企図といった衝動性に基づく症状、あるいは一過性の精神病的な症状は早期に消褪するが、問題のあるパーソナリティー特性と関連した、慢性的な怒り、空虚感、猜疑心の強さ、孤独に耐えることの難しさ、いわゆる「見捨てられ」に対する不安とされるものなどは、比較的変化しにくい傾向があるということである。
これは図らずもパーソナリティー障害とは、内的体験および行動の「持続的様式(enduring pattern)」であるという、DSMの定義の妥当性についても疑問を投げかける結果となった。
これらの結果がBPDという診断に対してどのような意味合いを持つかはさておくとしても、臨床的な意味合いがきわめて大きいことに異論の余地はないだろう。
遡及研究および前向き研究から得られた結果はいずれも、BPD患者の大半は時とともに改善することを示しているのであり、それは「パーソナリティー障害」という用語に伴いがちなネガティヴな印象を払拭するに足るものである。
本当はここからBPDの回復のメカニズムと、そのために必要とされる治療のあり方について、大まかなアウトラインを述べることへと稿を進めるところなのだが、その前に少々気の重い話題について触れないわけにはいかない。
それは「BPDと自殺」という問題である。

BPDという問題 その3

BPDについて論じる中で、その治療の難しさに触れない者はない。
たとえば一応「境界例の治療」について論じたはずの書物の中で、四半世紀以上にわたるその著者の、数百人におよぶBPD治療歴の中で、満足すべきかたちで終結を迎えた患者数は10人にも満たないなどと、さらりと書いてあったりする。
欧米でも事情は似たようなもので、たとえば790名のBPD患者を対象とした、一世代前の代表的な転帰研究(WaldingerとGunderson, 1984)によれば、熟練した精神分析療法家が精神療法をおこなった場合ですら、6ヶ月以上治療を継続した患者は54%であり、成功裏に治療を終結できたと判断された患者はわずか10%に過ぎなかった。
そしてこの場合の「治療の成功」とは、最小限の自己破壊性しか示さぬようになり、ほどほどに社会的機能を果たすことが出来るようになることであった。
たしかにBPDに対して「定型的な治療(医師による投薬、カウンセラーあるいは医師による個人面接、必要に応じた入院治療などの組み合わせ)」をおこなった場合、そうした介入に対する反応はおおむね極めて乏しい。
BPDという診断が、「これからあなたは苦難の日々を送るであろう」という宣告であるかのように見なされる時代が長く続いたのも、それなりに理由のあることだったのである。
しかしこうした見方は悲観的に過ぎたのかもしれない。
最近おこなわれたさまざまな研究は、いずれもBPDの長期予後が、これまで考えられていたほどーそしてなにより「パーソナリティー障害」という言葉から連想されるほどー悪くはない可能性があることを示している。
これらの研究の特徴は、BPDがどのような経過を辿るかについての調査が、せいぜい5年程度だった従来の研究よりも、はるかに長期間にわたってなされたことである。
調査方法の違いに基づいて、これらの研究は2つのタイプに大別される。
一つは過去においてBPDと診断されていた患者の経過を、入院した時点より平均して15年から27年後に、さかのぼって調査した転帰研究(遡及研究:follow-back study)であり、そしてもう一つは研究開始時点においてBPDと診断された患者を、2年から10年にわたりフォローするような形でおこなわれた転帰研究(前向き研究:prospective study)である。
ただしこれらの研究結果を読み取るに当たっては、以下に挙げるようなさまざまな方法論上のプラスマイナスについて十分に認識しておく必要がある。
遡及研究は診断をおこなう際の手続きが構造化されていないこと、どのような経過を辿って調査時の状態に至ったかについて充分な情報を得るのが難しいこと、また全ての患者の所在を突き止めるのは不可能であることー突き止めることが出来た患者の割合は、最大で91%(Stone,1990)であり、最小で25%(ParisとZweig-Frank,2001)であったーなどの問題を抱える一方で、対象とする患者の選択に偏りが生じにくいという利点がある。
他方で前向き研究は、対象とする患者の大半を追跡できるなら、ほぼ理想的な調査方法であるといってよいはずである。
しかしBPDの特徴を考慮に入れた場合、この方法を手放しで理想化するわけにはいかないだろう。
前向き研究をおこなう、すなわち長期にわたり経過をフォローされることに同意し、研究者と契約を結んだ上でそれを遵守することができるような患者は、そもそもBPDとしてあまり典型的とはいえない可能性があるからである。
さらに言うならそれらの前向き研究では、ドロップアウト率を低くするために、大半の患者は何らかの形での治療を継続的に提供されていた(Zanariniほか、2004)から、そこで得られた結果をBPDの自然経過と見なすことには無理がある(それとは対照的に、たとえばParisらの遡及研究で調査された患者の大半は、定期的な治療など受けてはいなかった)。
したがって長期予後について判断を下す場合、遡及研究と前向き研究の双方から得られた結果を十分に照らし合わせる必要がある。
さて以上を前提とした上で、まず遡及研究の結果からみていこう(McGlashan, 1986 ; Plakunほか, 1985 ; Stone, 1990 ; Parisほか, 1987 ; ParisとZweig-Frank, 2001)。
入院時より平均15年から27年が経過し、平均年齢が37歳から51歳に達した患者たちが示したGAF(機能の全体的評定)尺度の平均値は63から67であり、いずれも軽度の障害という範囲に収まっていた。
頻繁に転職を繰り返す傾向こそみられたものの、多くの患者はパートタイムなど何らかの形で就労しており、中には専門職に就きキャリアを重ねている者もいた(たとえばParis,2003)。
また15年が経過した時点でBPDの診断基準を満たしたのは、対象患者のうちわずか25%(Parisほか, 1987)に過ぎず、27年が経過した時点でその値はさらに8%(ParisとZweig-Frank, 2001)まで減少した。
こうした加齢に伴う「燃え尽き」傾向は、決してBPDだけにみられるものではなく、反社会性パーソナリティー障害や物質乱用などの、行動化が主体となる障害一般にみられるものではあるのだが、大いに心強い結果であることは間違いない。
では方法論的により厳密とされる、前向き研究ではどのような結果が得られているのだろうか?

(この項続く)

BPDという問題 その2

いまアメリカ精神医学会は、「境界性」パーソナリティー障害("borderline" personality disorder:BPD)という名前を変更できないかどうか、そしてさらにパーソナリティー障害自体をDSMの1軸へと移すことが出来ないかどうかを、真剣に検討しているところである。
これはBPDやパーソナリティー障害という用語につきまとう、軽蔑的な語感をなんとか払拭しようとする試みという側面があることは間違いない。
もちろん保険会社から治療費の支払いをしてもらうのに苦労しなくて済むー残念ながらアメリカでは、どのような医療をおこなうかを最終的に決定するのは医師ではないーような病名をつけたいという、臨床家の側の切実な要望にこたえたものという側面があるのもまた事実なのだが。
金銭にまつわる話はさておくとして、これらの提案には首肯できるところも少なくない。
たとえば境界性(borderline)ということばが何を意味しているのか、もはや誰にもわからないという現状がある。
50年前ならともかく、この障害が精神病との境界に位置づけられると真面目に考える者は、今では誰もいないだろう(ある種のメタファーとしてなら、ひょっとすると有効な場合もあるのかもしれないが)。
BPDとは情動の不安定さ、衝動性、不安定な対人関係、さらに認知症状(ストレスと関連した一過性の妄想的な考え、解離症状、あるいは幻覚)という4つの領域にまたがる障害だが、BPDという名称からそのうちの一つでも連想することはむずかしい。
BPDはDSMの2軸に属するパーソナリティー障害の中でも、臨床家の推測に基づくことなく、行動徴候や症状に基づいて定義されている、最も輪郭のはっきりした臨床類型の一つである。
それにもかかわらず、この障害が<わけがわからないもの>というイメージを、専門家からさえ抱かれがちなのは、このネーミングに由来するところも大きいだろうと思う。
この問題の厄介なところは、だからといってほかに適当な名称が今のところ見あたらないというところにある。
いままでに数多くの代替案が提唱されてきたが、世界保健機構(WHO)の国際疾病分類(International Classification of Diseases:ICD-10)における「情緒不安定性パーソナリティー障害」というネーミングも含めて、この複雑な障害の一面しか捉えていないというきらいがあることは否めない。
私はBPDという名称をこれから変えていくという提案に、むしろ賛成である。
しかしこの障害に対して、時期尚早なかたちで一面的なネーミングがなされるのを受け入れるくらいなら、境界性(borderline)という「名詞たらんとする形容詞(Akiskalら、1985)」が孕むあいまいさにさしあたり耐えていくのも、それほど悪くはない選択であるように思われる。
他方でパーソナリティー障害という概念をなくして、2軸障害の全てを1軸に移行させようという提案は、単なるネーミングの問題にとどまらない、DSM全体にとってラディカルな変革にあたる。
これはパーソナリティー障害を、早期に発症して慢性的な経過をたどるようなタイプの、1軸障害の変異型として定義し直そうという提案である(Firstほか, 2002)。
すでにこのアイディアは、WHOがさだめる国際疾病分類ICD-10(ICD;WHO,1992)において、部分的には実行に移されている。
すなわちDSM-4-TRでは2軸(パーソナリティー障害)に属するとされる失調型パーソナリティー障害(schizotypal personality disorder)が、ICD-10ではパーソナリティー障害としてではなく、統合失調症圏に属する統合失調型障害(schizotypal disorder)として、試行的に(一般的に用いることは勧められないというただし書きをつけられた上で)分類されているのだ。
DSMでもこのような動きにならって、回避性パーソナリティー障害は社会不安障害の中へ(Liebowitzほか, 1998)、BPDはたとえば「他のどこにも分類されない衝動制御の障害」の中へ、シゾイドパーソナリティー障害は陰性症状主体の亜型として統合失調症の中へ、妄想性パーソナリティー障害は妄想性障害の中へ、強迫性パーソナリティー障害は強迫性障害の中へ、反社会性パーソナリティー障害は「素行障害の大人版」という分類を作ってその中へ、それぞれ分類し直せばよいとされる。
演技性パーソナリティー障害、自己愛性パーソナリティー障害、依存性パーソナリティー障害の3類型については、1軸障害でこれらに相当する適当な類型が存在しない。
そんなこともあって研究者の中には、これらの類型を抹消しても構わないのではないかと考える者もいる。
これらの診断類型はもともと精神分析の影響下で作られた(Millonほか, 1996)ものであり、またこれらの類型を対象とした研究の数も決して充分とはいえないから、消えてなくなったところで精神分析的立場に立つ臨床家をのぞけば大して困る者もいるまい、というわけである(たとえばParis, 2008)。
さすがにここまでくると私でもついていけないものを感じるし、とりわけ一般人口の0.1%が罹患(Samuelsほか, 1994)しているとされ、BPD患者の17%が併存していることが明らかになっている(Clarkinほか, 2004)自己愛性パーソナリティー障害を抹消してよいというのは、やはり極論であるとしか思えないのだが、これらの提案の中には、真剣に検討するに値する内容が含まれているのもまた事実なのである。
A群パーソナリティー障害(妄想性、シゾイド、そして失調型パーソナリティー障害)、とりわけ失調型パーソナリティー障害と統合失調症との関連性については、以前から指摘されてきたところだし、これから論じていくBPDについても、1軸に移したほうが理にかなっていると思われる点は多々存在しているのであるーただし現行の1軸障害の1つの類型の中にBPDを当てはめるのではなく、新たな診断類型を作ることが望ましいだろうが。
それでもパーソナリティー障害という概念を捨て去ることにより、それが解決するよりも多くの問題を作り出してしまうのではないかというおそれを抱く者は決して少なくはないのだ(たとえばWidiger,2007)。
不適応的なパーソナリティー特性をもつひとびとを充分に説明するのは、いくつかのパーソナリティー障害を重複して診断することによってすら難しいと、現在でさえ見なされている(Livesley, 2003; TrullとDurrett, 2005)というのに、気分障害、不安障害、衝動制御の障害、妄想性障害などの1軸障害を仮にいくら組み合わせたところで、それが可能になるとは思えない。
他方でパーソナリティー障害が、治療の対象とされるべき障害として、あるいは他の精神疾患のマネジメントを厄介なものとする要因として、重要な意義を持つことには、充分な裏付けがこれまでに得られているのである(Firstほか, 2002)。
このような事情もあって、上記のような変革がDSMの次の改訂(DSM-5)で実行に移されるかどうかは、いまのところよくわからない。
しかしBPDという診断名が、今なお流動的な状況にある「境界性」「パーソナリティー障害」という2つの用語から構成されているのは、この障害をめぐる問題について考えていく上で象徴的なことであるように思われる。
ただしBPDという診断名によって名指される障害が、今後ともDSMの中に残しておくに値する、重要な類型であることに疑いの余地はない。
それは必ずしもこの障害が、DSMの2軸に含まれる10類型からなるパーソナリティー障害の中でも、最も多くの実証的データが得られている3つの診断類型(反社会性パーソナリティー障害、BPD、失調型パーソナリティー障害)のうちの一つ(Paris, 2008)であるためばかりではない。
むしろこの診断が、精神療法をおこなう際に非定型的なアプローチをする必要があるー通常の精神療法的アプローチが効果を示すことがあまり期待できないー患者群を意味していることのほうがはるかに意義は大きい。
それこそがBPDという類型を存続させるべき最大の理由である。

(この項続く)

BPDという問題 その1

境界例なんて診断をつけちゃダメだよ、黒田くん。あんなものはいずれ別の診断で置き換えられることになるんだから」
かなり以前に、ふたまわりは年長かと思われる先輩医師から、私はこのような忠告をされたことがある(その当時この障害は、よく「境界例」と呼ばれていた)。
うつ病を専門としていた先輩がわざわざしてくれたその「忠告」を、当時の私は黙って聞いているほかはなかったのだが、それでも心の底に「境界性パーソナリティー障害(以下ではBPDと省略)という診断を抹消したからといって、自殺未遂や自傷行為を繰り返す<うつ病>の患者が治せるようになるわけでも、消えてなくなってくれるわけでもあるまいに」という不遜な考えが湧いてくるのを抑えることはむずかしかった。
思い返してみるなら、このー密かなーやりとりは、現在に至るまで決して解消されたとはいいがたい、BPDにまつわるさまざまな問題を典型的な形で示している。
その当時(約20年前)はもとより、今でもBPDという診断を精神科医はあまりつけたがらない(アメリカ精神医学会が刊行した、「精神疾患の分類と診断の手引き[DSM-3(本来はローマ数字だが、表示できないようなので以下ではアラビア数字で表記する)]」に、BPDという項目が記載されてからもうすぐ30年にもなるのだが)。
そのことを患者さんやその家族は充分に承知しておく必要がある。
たとえば約10年前にアメリカのロードアイランド病院でおこなわれた研究によれば、そこの外来で診療をしている医師たちがBPDという診断をつけるのは、患者のわずか0.4%に対してのみであった。
しかし似たような患者を対象として構造面接をおこなうと、BPDという診断が下される頻度は14.4%に跳ね上がった(ZimmermanとMattia, 1999)。
これはBPDという診断をつけるかどうかが、治療に対して重大な影響を与えるものであることを考えれば、決してなおざりに出来るような問題ではない。
たとえばBPDに限らず、なんらかのパーソナリティー障害が存在する場合、抑うつ症状に対する抗うつ薬の反応が乏しくなることは良く知られている(Newton-Howesら,2006)。
しかしながらBPDと併存していることの多い、代表的な疾患が気分障害(うつ病双極性障害など)、不安障害、そして物質乱用である(Zanariniほか, 1998)ことを考慮するなら、適切に診断がつけられていない場合、こうした患者たちは限られた効果しか持つことのない、薬物を用いた治療を受けることになる可能性が最も高い。
大量服薬、家庭内暴力、自殺未遂やパニック発作など、さまざまな理由で昼夜を問わず外来を訪れては抗不安薬向精神薬、さらには抗うつ薬などを処方され、症状が改善されることなく青年期の貴重なー場合によってはその人の社会的予後を左右する可能性すらあるー数年間を費やしてしまった<パニック障害>や<うつ病>の患者さんを、私は何人も知っている。
もちろんパニック障害うつ病と診断すること自体が問題なわけではない。
現行のDSM(精神疾患の分類と診断の手引き)は、1軸から5軸までの多軸診断システムとなっている。
原則的に言えば1軸は症状のあり方について、そして2軸は主としてパーソナリティ特性と関連した障害について評価するものである(3軸は一般身体疾患、4軸は心理社会的、環境的問題、5軸は全般的機能の評価のための軸だが、実際の臨床においてこれらの評価がなされることはまれなので、ここでは取り上げない)。
そしてパニック障害うつ病はもとより、統合失調症のような最も典型的な精神障害ですら、その病態が1軸と2軸の両方から影響を受けている場合がほとんどである。
問題はDSMにおいて1軸と2軸をわざわざ区別したのは、臨床家が診断を下す際にパーソナリティー障害について考慮するよう促すことを意図したものであったにもかかわらず、それが完全に裏目に出てしまっていることである。
実態はまさに逆と言って良いくらいであり、2軸障害はほぼ完全に無視される(Zimmerman & Mattia 1999)か、あるいは真剣に受け止められない傾向がある。
これはおそらく多くの臨床家が、1軸に分類される障害の方が治療できる可能性が高く、パーソナリティー障害という診断は患者をおとしめるものであると考えるー誰がすき好んで自分には治せない、あるいは治りにくいと考える障害の診断などつけたがるだろう?ーためだろう(Livesley 2003)。
そこにあるのが臨床家たちの善意であることを私は疑わない。
だがさきほども述べたように、そのような善意が患者さんや家族にとってプラスの結果をもたらすとは限らないのである。

(この項続く)

はじめるにあたって

これからしばらくの間、境界性パーソナリティー障害(BPD)について、とりわけその治療について論じていくことにしたい。
このような形で公にするのはなぜかといえばその理由は簡単で、2年以上も前から書き下ろしでBPDについて何か書くと書肆に約束しているにもかかわらず、さっぱりそれを実行していないからである。
さすがに臨床の忙しさをいつまでも言いわけにしているわけにもいかなくなったとある日、はたと「日記」のように書いてみればよいではないか、と思いついたところからこの企画は始まっている。
さて「日記」のようにとはいっても、いちおう臨床に関わる文章を、インターネットという媒体を使って公表していくのだから、そう気楽に書くわけにはいかない。
さいわいなことにBPDの治療ー少なくとも私がおこなっているような、家族面接を旨とするような治療ーでは、ある患者さんにしか生じない問題、ある患者さんにしか通用しない介入というのはとても少ない。
特定の患者さんやご家族にしか当てはまらないようなことについて、わざわざ論じていくことにさしたる意義があるとは考えにくいから、当然プライバシーに触れるような内容について記すこともなかろうと思う。
さて、以上のような前置きをした上で「家族と専門家のための境界性パーソナリティー障害治療マニュアル(仮題)」である。
これはもちろんJ.G.ガンダーソンとP.D.ホフマンが編集した、「境界性パーソナリティー障害の理解と治療:専門家と家族のためのガイド(「境界性パーソナリティー障害最新ガイドー治療スタッフと家族のためにー」という題名で星和書店から邦訳が出ている)」という書物の題名をもじったもので、かねてから私はこの本の内容というより、題名が気に入っていたのである(自分で訳したからいうわけではないが、内容的にはガンダーソン自身の著作である「境界性パーソナリティー障害ークリニカルガイドー」[金剛出版、2006]のほうがはるかに優れている)。
BPDは決してまれな障害ではないにもかかわらず、専門家によって書かれた家族向けの書物の数はとても少ないし、その内容も上記のガンダーソンのものも含めて、専門家向けの書物の内容を、素人にもわかるように翻案したという域を出ないものがほとんどである。
せめてBPDの患者さんと関わりを持つ上で、家族が何をした方がよいか、何をしない方がよいかについて、そしてそれが治療者の介入とどのようにリンクしているかについて、もう一歩踏み込んだ内容のマニュアルが作れないものか。
それがどの程度かなえられるかは心許ないが、この仮題はそのような私の願いを反映したものである。
なお次回以降に私が論じる内容については、必要に応じて典拠をあげていくことにする。
これは専門家や、文献に当たってみようという奇特なご家族が、私の論じた内容の正否をチェックしやすくするための配慮である。
煩雑に見えるかも知れないが、お許し願いたい。
さて、話は「BPDという問題」というところから始まることになる。